小説 | ナノ




「悪い、寝てた」

呼び鈴を三度ほど押してようやく開けられた扉の向こうから、生気が抜け落ちたような顔で出迎えたヤマトに、「うん、そうだと思った」岳は動じす笑顔で答えた。日曜日の昼下がり、一時間ほど前に送った『お母さんがロールキャベツ作り過ぎたから、持ってくね』というメールに音沙汰が無かったので予想はしていたが、そう言えば兄は重度の低血圧体質だったなと顔を見て思い出した。

「でも珍しいね、こんな時間まで寝てたなんて」
「寝たのが朝方だったんだよ。久しぶりにベース触ってたら、止まんなくなっちまって」

ロールキャベツの詰まったタッパーを受け取って、ふらふらと台所に向かう兄の背中に同情しつつ岳はリビングを見渡した。相変わらず汚い。開けっ放しのドアの奥に覗ける兄の部屋のベッドにはベースが横たわっていて、また昔みたいに気付いたらあれを抱えたまま寝てたんだろうな、と想像して笑ってしまった。

「コーヒーでも飲むか?」
「うん、貰うよ。ねえ、ベース触っていい?」
「ああ」

部屋に踏み入りそれに手を伸ばしたのと、兄の返答が聞こえたのはほぼ同時だった。ネックの部分を慎重な手つきで握りリビングへと持ち帰る。いつ持ち上げてもずっしりと重たいそれを、今の自分と同じ年の頃から兄は抱えたり持ち歩いたりしていたのだと思うと感慨深い。椅子に腰掛けなんとなくのフォームで適当に弦を弾くと、べんべんと軽い音が鳴る。室内用のアンプに繋がれていたシールドは外してきた。
高校受験に専念、という至極真っ当な理由で、兄のバンドは夏から活動を休止している。それまでは来るたびに部屋に楽譜が散乱していたり、シールドやヘッドホンのコードが床で絡み合ったりしていたのに、8月に遊びに来た時は整然としていて、違和感すら覚えたほどだった。さすがにベース本体までケースに仕舞われたまま、ということは無かったが。

「ちょっと錆び付いてるね、弦」
「ああ、5月あたりに変えてそのままだからな。高いんだよ、ベースの弦」
「そうなんだ。昨日は、曲書いてたの?」
「少しな。息抜きのつもりだったのに、いつの間にか朝だったよ」

そう言って苦笑しながら、二人分のコーヒーを持ってテーブルの向かいに腰掛けた。兄が書いた曲のベースラインを記憶だけを頼りになぞろうと試みたが、やっぱり兄のそれみたいに滑らかには動かない指。思惑に気付いたのか、マグカップに口をつけたままヤマトはじっと岳の指先を見た。岳は降参して弦に沿わせた手をマグカップに移す。

「今日は、デートじゃないの?」
「はあ?」
「空さん。いつも、日曜日は逢ってるんじゃないの?」
「逢ってるけど。今日は家の茶会なんだって」

照れ隠しだろうか、ヤマトは岳の真っ直ぐな瞳から目を反らしぶっきらぼうに返した。「そっかあ。大変だね、空さん」ふふ、と笑ったのはそんな兄の態度に対してだった。つい一年前までは、こんな風に兄の恋人事情を茶化す日が来るなんて、思ってもみなかった。否、想像はしていたけれど、まさかこんなに早く来るだなんて。

空さんと付き合い始めて、兄は変わった、と岳は思う。良い意味で少し我儘になったし、それ以上に、他人に対して寛容になった。そして、岳にあまり構わなくなった。それらの変化は岳にとって嬉しい反面、寂しいことでもあった。他人からしてみれば依然、仲の良い兄弟であるのに変わり無いのだけれど、こうも分かりやすく変化を見せられると、弟という立場を抜きにしても些か面白くない。
だから岳は敢えて、兄と彼女の事情をこうしてからかい半分に聞いたりする。ヤマトもそれに気付いているのか、いないのか。でもきっと、こうしてダイレクトにその話題について尋ねるのも、尋ねて許されるのも、仲間の中では自分くらいだろうという自負もあった。

「もうすぐクリスマスだねー」
「そうだなあ。お互い受験だから、それどころじゃないかも知れないけどな」
「プレゼントは何にするの?」
「まだ考え中。って、もういいだろ、恥ずかしいな」

テーブルに肘をついて手に顎を乗せた兄の顔はほんのり朱い。岳はあはは、と笑って再び弦に指を滑らせた。ぶつ切りのメロディーが微かに部屋に響く。熱中して弾くと、今度は兄がうずうずしだすので加減しなければならない。

『なんで、ギターじゃなくてベースなの?』
素朴な疑問を兄に投げ掛けた時のことはよく覚えている。
『んー。単純に、低音が心地良いからかな。あと、バンドで唯一の音なのに、主役にならないってかっこいいなって思ったんだよ』
その時は、兄の言うかっこいいの理由がいまいち分からなかったけれど、兄らしいという印象だけは抱けた。唯一なのに主役にならない。その言葉はまるで、あの夏における自分自身に重ねたものだったんじゃないか、なんて当時は邪推したものだった。最もいざバンドを組んだ際には、他に良いメンバーが見つからなかったという理由でまさに主役であるボーカルパートまで兼任し、図らずとも主役中の主役に兄は踊り出てしまったわけだったが。

「兄さんが、空さんを選んだの、今なら凄くわかるよ」

ぽつりとそう零すと、ヤマトは不思議そうな顔をした。かなり前に教えて貰ったオクターブ奏法は、やっぱり手が攣りそうになって今も上手く鳴らせない。

「空さんも、唯一無二で、主役にならない人だもんね」
「…お前なー」

いっちょまえに言いやがって。そう言って笑う兄の顔に岳は何処か懐かしささえ感じた。ほろ酔いになって、父と出逢った頃の思い出をぽろぽろと語った母の面影を見たような気がしたけれど、その場では言えなかった。じんと痛む指先は兄が乗り越えたもので、自分もこれに似た切なくて寂しい何かを、いつか乗り越えければならない。しかし今はまだ、こうして許容出来るくらいの痛みに甘やかされていたいと思う。せめて、兄が大切な唯一の音を、こうして自由に触らせてくれる間は。

















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